第1章 地震で村が変わった

 

村をなくしたくないんだ

 

 「宝探し」の翌日、村人を中心に今後「宝探し」の結果をどう集落に活かして行くかの話し合いが行われました。長崎さんは、村人の表情や視線に本気度を感じました。

 「正直なところ、今後集落としてどうしたらいいか非常に不安でした。地震からの復興としてたくさんの人がボランティアに来てはくれたが、今後継続していけるかは自信がなかった。収穫祭の取材に来ていたある新聞記者に『10年後の池谷集落への想いを語ってほしい』と質問されたが、10年後どころか来年もまたボランティアが来てくれるかも自信が持てず、全く答えることができなかった。」

 実行委員会の代表として、ジェンと池谷集落の橋渡しをしていた山本さんは当時の心境を語ります。

 村人からも「10年後この集落が残れるか心配」「農業を継いでくれる人がいない」と不安の声が上がりました。宝探しで集落に自信を持つことができたものの、集落の存続に対して不安はつきませんでした。

 話し合いの結果、活動を継続できる人材を探すこと、分校や空き家を改修して地域おこしの拠点とすること、収穫祭を毎年定期的に行うこと、売り物になるものを作ることが主な方向性となりました。

 収穫祭を機に、村人は集落の存続に対して前向きに考えるようになりました。長崎さんは月1回程のペースで精力的に池谷に通ってくださり、話し合いをリードし様々な提案をしてくれました。先進地域の方に来ていただき勉強会を行ったり、宝探しの結果をもとに集落の宝探しマップを作成したりもしました。宝探しマップは2006年5月に完成し、村人やボランティアの参加者など各方面に配布され、大変好評でした。

 2年目となるボランティアの受入と同時並行で、村人は今後の取り組みについて話し合いを重ねました。長崎さんの「皆さん池谷をどうしたいですか?」とのたび重なる問いに、長い沈黙のあと、ぽつりと、

 「本当は、この村をなくしたくないんだ…。」

 と村人から本音がこぼれました。

 それまでは「自分たちの代で村はなくなってしまう」というのが暗黙の了解で、集落の存続についての話題は村人にとって触れてはいけないタブーのような存在でした。しかし1人がこう言うと、

 「そうなんだ、本当は集落を存続させたいんだ。」

 「よその人でもいいので集落を継いでくれる人に来てもらいたいんだ。」

 と、堰を切ったように皆口々に集落を存続させたい思いを話し出しました。

 この出来事で、池谷集落の目標ははっきりと「村を絶やさない」ということが共有されたのです。そのためにまず「にぎやかな村」を目指すこととしました。2006年11月から3年間、中越大震災復興基金の被災者生活支援対策事業(地域コミュニティ再建)を申請し、集落の入り口の案内看板の設置やイベントを行いました。村人は何度も集まっては、先進地の勉強やビジョンを練り、今後の取組みについて話し合いました。

 池谷集落は住民が少ないですが、そのことがかえって住民全員が同じ目標を共有しやすく、集落一丸となって活動に取組めたのではないかと思います。

 

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写真:2006年6月21日に行われた池谷・入山未来デザインWSで出来た模造紙。「にぎやかな村」「村を絶やさない」「直販の成功」「人口増」などキーワードが随所に登場している。

 

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